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大阪地方裁判所 平成2年(行ウ)54号 判決 1994年8月29日

原告

福山紀美子

右訴訟代理人弁護士

西川雅偉

被告

地方公務員災害補償基金大阪府支部長

中川和雄

右訴訟代理人弁護士

今泉純一

主文

一  被告が原告に対して昭和五九年三月二二日付けでした公務外認定処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  請求

主文同旨

第二  事案の概要

本件は、原告が、被告に対し、その亡夫福山隆雄(以下「亡隆雄」という。)の死亡について、地方公務員災害補償法に基づき公務災害認定を請求したところ、被告が、右死亡は公務により生じたものではないとして公務外認定処分をしたため、右死亡は公務により生じたことが明らかであり、右処分は違法であると主張して、その取消しを求めた事案である。

一  争いのない事実

1  亡隆雄の死亡

亡隆雄(昭和九年九月四日生)は、原告の夫であり、松原市立松原第四中学校(以下「第四中学」という。)に教員として勤務していたが、昭和五六年五月一九日、担当していた第四時限の障害のある生徒の体育の授業中、右生徒を四階の教室へ連れて上がった後の午後〇時二〇分頃、背中から頭にかけて痛みと倦怠感があったことから同校の保育室のベットで休んだが、次第に身体状況が悪化したため、校医の往診を受けた後、救急車で松原市三宅所在の垣谷病院に搬送され、さらに同病院から堺市向陵中町所在の医療法人清恵会病院に転医され、脳動脈瘤破裂と診断されて入院加療をしたが、同月三一日、脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血により死亡した。

2  本件処分

原告は、昭和五六年六月五日、被告に対し、亡隆雄の死亡が公務上の災害であるとして地方公務員災害補償法に基づき公務災害認定請求をしたが、被告は、昭和五九年三月二二日、亡隆雄の死亡が公務に起因するものではないとして公務外認定処分(以下「本件処分」という。)をして原告にその旨通知した。

このため、原告は、地方公務員災害補償基金大阪府支部審査会に対し、本件処分について審査請求をしたが、同審査会は、昭和六三年七月六日、右請求を棄却する旨の決定をした。

そこで、原告は、同年一一月一五日、地方公務員災害補償基金審査会に対し、再審査請求をしたが、同審査会は、平成二年二月七日、右請求を棄却する旨の裁決をし、右裁決書は原告に送達された(なお、弁論の全趣旨によれば、右送達日は同年四月一一日であることが認められる。)。

二  主たる争点

亡隆雄の死亡の公務起因性

(原告の主張)

亡隆雄の死亡は、以下のような過重な職務による精神的ストレスや高血圧による脳動脈瘤破裂により、くも膜下出血が発症したものであり、公務に起因することが明らかである。

1 亡隆雄は、昭和五〇年に松原市立松原中学校と同第二中学校の校区の一部を併合して開校した第四中学にその開校と同時に勤務し、以降昭和五六年三月まで六年間、学級を担任せず、生徒指導主事として生徒指導全般を担当したが、昭和五五年度には校内外で生徒の問題行動が多発し、同人の職務は特に過重となった。

2 同人は、昭和五六年三月二五日から四月七日までの春休み期間中も三月二五、二六、二八、三一日、四月一、四、六、七日の八日間、野球部の練習指導と他校への試合の引率を行い、四月二日と三日も職員会議などのために出勤しており、1の激務による精神的身体的疲労から回復する間もなく同年四月を迎えた。同人は、同年四月から、生徒指導主事を辞め、三年生の学級担任と週二二時間の授業を担当することになった。なお、同人の担任する学級の生徒の中には、昭和五五年度に問題行動があり指導した女生徒も含まれていた。

亡隆雄は、職務内容の変化と進学就職の指導、修学旅行の準備などの新たな職務のため、過度の精神的身体的緊張を強いられた。

3 同人は、昭和五六年四月以降日常業務以外に修学旅行の準備などに従事したが、同月下旬以降前記の女生徒の問題行動が続発し、その指導のため精神的身体的疲労が極限近い状態となって発症日である同年五月一九日を迎えた。

(一) 同人の担任する学級では、同年四月一〇日学級委員が選任されたが、前記の女生徒のみが立候補して委員に選任された。

しかし、同月一三日の学年会において、学年全体にわたる問題生徒のグループが学級委員に立候補する動きのあることが指摘され、同月一五日に三年担当の教員全員で指導に当たることが確認され、これが実施された。そのため、亡隆雄は、同僚教員から、前記の学級委員選出と学級経営の方法について批判された。

(二) 前記の女生徒が同月二五日問題行動を起こし、同月二八日には右女生徒を含む女生徒らが三人の下級生に集団で暴行を加える事件が起こり、亡隆雄は、右女生徒らを指導する一方、その父兄を学校に呼んで指導したり、家庭訪問を繰り返していた。ところが、同年五月一一日、前記の女生徒らが同年四月二七日に別の女生徒一人に対し暴行を加えていたことも判明した。

(三) 亡隆雄は、同年五月一三日から一五日まで、毎日午後七時から夜一一時ころまで右の女生徒ら及びその親に対する指導を行ったが、その際、親の一部から、昭和五五年に自分の子が当時の三年生から激しい暴力を振るわれたのに、学校側が何も対応しなかったという苦情が出され、その時の相手方の生徒を呼び出して謝らせない限り、今回の件について謝罪しないなどという発言があり、亡隆雄は対応に苦慮していた。

(四) 同人は、このような過重な精神的身体的ストレスの下で発症日である同年五月一九日を迎えた。

4 同人の発症日の職務も過重な精神的身体的疲労をもたらすものであった。

同人は、同月一九日の第四時限で障害のある生徒に対する体育の個別指導を行う授業を担当し、運動会でビニールバットでボールを打って右生徒に拾わせようとしていたが、右生徒が反応を示さないため声を張り上げては注意を向けさせ、ボールを打っては取りに走るという行動を繰り返した上、授業終了直前に、右生徒を抱き抱えるようにして四階にある教室に送り届けた。

このような公務は、同人に過重な精神的身体的負担をもたらした。

被告は、公務起因性が認められるためには、日常業務に比較して特に質的若しくは量的に過重な業務に従事したことを要し、右業務による加重負荷が発症一週間前になければならないと主張するが、この主張には合理性がない。すなわち、このような基準によれば、公務遂行による精神的身体的負荷のため疲労が徐々に蓄積され、脳動脈瘤が破裂しやすい状態になって破裂するに至った場合や右疲労蓄積により高血圧状態が生じ、そのため何らかの血圧を上昇させる出来事が生じた結果急激に血圧が上昇し脳動脈瘤破裂に至る場合には公務起因性が否定されることになり、不合理である。

(被告の主張)

亡隆雄の脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血の発症による死亡に公務起因性はない。

1 公務起因性が認められるには、災害補償制度が無過失責任制度であり、補償給付のための基金が税金を原資とする地方公共団体の負担金で賄われることにかんがみると、地方公務員災害補償法による補償請求権が発生するには、公務と死亡との間に相当因果関係が存在することを要すると解すべきである。そして、公務がその死亡の相対的に有力な原因と認められる場合に限り、相当因果関係の存在を肯定すべきである。

2 脳血管疾患及び虚血性心疾患は、基礎となる動脈硬化等による血管病変若しくは動脈瘤又は心筋変性等の基礎的病態が、加齢や一般生活等における諸種の要因により増悪し、発症に至るものがほとんどであり、脳動脈瘤破裂の場合も、その原因となる曩状脳動脈瘤は、先天的な動脈の中膜及び弾力繊維の発育不全欠損により動脈壁に薄弱部が生じ、動脈圧により突出膨張して発生するという見解が有力であり、公務自体が血管病変等の形成に当たって直接の原因とはならない。

そして、脳動脈瘤の破裂原因についての医学的知見は定まっていないが、加齢と血圧の関与が有力であり、外的ストレスによる血圧上昇がその原因に関与することは否定できない。

そして、急激な血圧変化や血管収縮を引き起こす負荷が加わり、基礎疾患である脳動脈瘤が自然的経過を超えて急激に著しく増悪し、脳動脈瘤破裂が発症した場合において、このような血圧変化や血管収縮が公務により引き起こされたときには、公務と発症との間の相当因果関係を肯定するのが相当である。

したがって、その公務起因性が認められるためには、発症状態を時間的場所的に明確にし得る異常な出来事に遭遇したこと又は日常業務に比較して特に過重な業務に就労したことのいずれかにより、医学上当該疾患の発症の原因とするに足りる精神的身体的負荷(以下「過重負荷」という。)を受けていたこと、素因などがあった場合には職務による精神的又は身体的負荷が当該疾病の自然的経過を超え急激に著しく増悪し発症させるに足りるだけの強度を有すること、過重負荷を受けてから症状の出現までの時間的経過が医学上妥当なものである必要があり、脳出血の場合には、発症前一週間以内の業務による負荷が発症に影響を及ぼすといわれているので、右期間内の業務内容を重視すべきである(昭和六二年一〇月二二日職補―五八七人事院事務総局職員局長通知「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の公務上の災害の認定基準について」、昭和六二年一〇月二六日基発第六二〇号労働省労働基準局長通達「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準について」)。

3 亡隆雄の公務は、同人に対し特に過重な負荷を与えるものではない。

発症当日の同人の授業は、日常業務に比較して特に過重な精神的身体的負荷を生じさせるものではない。また、昭和五六年五月一三日から一五日までの三日間、同人が深夜近くまで生徒指導や父兄との懇談をしたとはいえ、本件発症前一週間の同人の職務内容も特に加重な精神的身体的負荷を生じさせるものとはいえない。本件発症前三か月間の時間外勤務時間は、同年二月こそ月一一三時間三〇分と多いが、同年三月五七時間、四月六時間三〇分と減少し、この間年次休暇を二日取得し、自宅研修日が八日あったことからしても、同人の業務が特段過重であったとは認められない。

また、同人が同年四月から六年ぶりに学級担任となったことも、同人が経験豊かな教員であったことを考え併せると、過重な職務に従事したとはいえない。

三  証拠

記録中の証拠に関する目録記載のとおりであるから、これを引用する。

第三  争点に対する判断

一  前記争いのない事実及び証拠(甲二ないし四、五ないし八の各1・2、九、一〇、一二ないし一四、一五の1・2、一六、一八、二〇ないし七四、七八、八〇ないし九六、一〇〇ないし一〇四、一〇五、一一三、乙五、七ないし九の各1・2、一一、一二、二二、証人片岡信行、同中村勇次、同山川弘史、同五月女公子、同村田三郎、同柳原武彦の各証言、原告本人尋問の結果、弁論の全趣旨)によれば、以下の事実が認められる。

1  亡隆雄の職務内容(甲二ないし四、五ないし八の各1・2、九、一〇、一二ないし一四、一五の1・2、一六、一八、二〇ないし四〇、四三ないし七四、八三ないし九六、一〇一ないし一〇四、一一三、乙二二、証人片岡信行、同中村勇次、同山川弘史の各証言、原告本人尋問の結果、弁論の全趣旨)

(一) 亡隆雄(昭和九年生)は、昭和三七年四月、大阪府松原市立松原中学校に教員として採用され、昭和五〇年四月一日、第四中学にその開校と同時に勤務し、以後昭和五六年三月まで六年間、生徒指導主事として、学級担任をせずに、生徒指導全般を担当した。第四中学は、新設校であり、後記のように生徒の問題行動が頻発し、非常に荒れた状態であったが、同人は生真面目で責任感が強く職務熱心な性格であり、生徒指導の中心となって、問題行動を起こした生徒の指導と同校の正常化に精力的に取り組んでおり、生徒からは指導に熱心で厳しい教員であると考えられていた。

なお、同中学は、昭和五五年五月一日当時、学級数三〇、生徒数一三〇二名であった。

(二) 亡隆雄の昭和五五年四月から昭和五六年三月までの職務内容は、生徒指導主事として、学校における生徒指導計画の作成、生徒に関する専門的面接相談、学級担任などの教員が行う生徒指導についての助言協力、生徒指導に関して保護者や近隣中学、警察、児童相談所など関係諸機関との連絡調整、生徒指導に関する各種資料の収集整備保管などの職務を担当したほか、週四時間の社会科授業、週二時間の障害のある生徒のための授業、生徒会執行部の活動や生徒会新聞発行の指導、生活委員会、クラブ活動(野球部)の指導、生徒の毎朝の登校時の服装や頭髪の点検指導や下校確認、運営委員会、同研推進委員会、教育過程検討委員会(いずれも校内組織)、青少年健全育成協議会への出席、制服、バッジなどの給品事務、給食パンの購入取次事務、生徒指導特別報酬金の運用と会計事務などの職務も担当した。

(三) 亡隆雄は、生徒が問題行動を起こした場合、生徒指導主事として、学年生徒指導の教員(三名)と協力して、学校側の中心になって、右生徒に対する指導、右生徒の親との懇談、家庭訪問等も担当していた。同人は、問題行動を起こした生徒に対する指導に極めて熱心であって、これを担任の教員のみに任せず、自分で長期継続的に指導し、学力に問題のある生徒については、夏休み等に学科指導をしたり、両親の世話を十分受けられない生徒については、その家庭を訪問し、買い物や夕食の支度を手伝うなどしていた。

しかし、第四中学は、昭和五二年以降、教員に対する暴力や生徒間の暴力、万引き、家出が頻発するなど非常に荒れた状態にあり、昭和五五年四月から昭和五六年三月までの間においても、昭和五五年一一月、生徒が職員室に侵入して担任教員を殴打し、これを止めた他の教員にも暴力を加えた事件や、同年一二月、亡隆雄自身が生徒から暴力を受けた事件を含めて、生徒の問題行動が七一件発生した(喫煙六件、暴力行為二五件、恐喝五件、万引き四件、家出一二件、学校施設器具の損壊、痴漢行為、わいせつ行為等一九件)。そして、本件発症の約三か月前である昭和五六年二月一日から三月末日までの二か月間のみでも、生徒間の暴力や教員に対する暴力行為四件、恐喝行為一件、わいせつ行為二件、学校器具の損壊数件が発生した。亡隆雄は、学校側の中心となって、その対応、対策に追われていたが、同年三月ころには、右生徒の指導が容易でなく、同校の状態が一向に改善されないことや、生徒指導主事としての職務を遂行する際にこのような生徒の反感を一身に受けることが少なくないことなどを非常に悩んでおり、帰宅後も緊張が解けず、いら立った様子を家族に見せるようになっていた。

(四) 亡隆雄は、同年三月二五日から四月七日までの春休み期間中、同年三月二五、二六、二八、三一日、四月一、四、六、七日の八日間、野球部の練習指導と他校への試合の引率を行い、四月二日と三日も職員会議などのため出勤した。

同人は、同年四月の新学期から職務内容が一変し、六年ぶりに学級担任(三年生)をする上、授業時間数も週二二時間に増加することになったため、春休み期間中もその準備に相当程度の時間を費やした。

2  亡隆雄の死亡前の職務内容(甲五五、六六、六七、七四、八七ないし九六、一〇〇ないし一〇二、一〇五、証人中村勇次、同五月女公子の各証言、原告本人尋問の結果、弁論の全趣旨)

(一) 亡隆雄は、同年四月から、生徒指導主事を辞め、三年生の学級担任と週二二時間の授業を担当することになったが、同人が三年生の学級担任をしたのは、前任の松原中学において昭和四八年度に担任して以来であった。また、同人は、進路指導部に所属し、文化委員会とテニス部の指導をしたり、昭和五六年五月二一日から二三日まで予定されていた修学旅行の準備も行った。

なお、同人の担任学級の生徒の中には、髪の毛を染め、喫煙、外泊、単車運転、暴力行為などの問題行動を再三引き起こしたため、同人が昭和五五年度に繰り返し指導していた女生徒も含まれていた。

(二) 同人の担任した学級では、昭和五六年四月一〇日学級委員が選出されたが、前記の女生徒のみが立候補して右委員に選出された。しかし、同月一三日の学年会において、同僚教員から、学年全体にわたる問題生徒のグループが学級委員に立候補する動きのあることが指摘され、同月一五日に三年担任の教員全員で指導に当たることが確認され、これが実施された。そのため、亡隆雄は、同僚教員から、前記の学年会において、前記の学級委員選出などその学級経営のあり方を強く批判された。また、亡隆雄は、前記の女生徒の家庭を再三訪問するなどして接触の機会を数多く設け、その気持ちを開かせて指導の効果を上げようと努力し、右女生徒の家庭事情を配慮して特別に昼食時に帰宅を許す許可を与えることまでしたが、右女生徒の態度行動は一向に改善されず、同僚教員から、このような指導方法が右女生徒を特別扱いしてその我がままを全面的に容認するものであるという強い批判を招くことになった。そのため、亡隆雄は、同僚教員との考え方の違いや学校内の人間関係についても深く悩むようになった。

(三) 前記の女生徒が同年四月二五日再び問題行動を起こし、同月二八日には右女生徒を含む女生徒らが三人の生徒に集団で暴行を加えるという事件が起こり、亡隆雄らが右女生徒らを指導する一方、その父兄を学校に呼んで指導したり、家庭訪問を繰り返すなどその対応に追われた。ところが、同年五月一一日、前記の女生徒らが同年四月二七日に別の女生徒に対し暴行を加えていたことも判明した。

(四) 亡隆雄は、同年五月一三日から一五日まで、毎日午後七時から夜一〇時三〇分ないし一一時ころまで右の女生徒らに対する指導を行うとともに、その親を学校に呼び出して懇談した。しかし、その際、親の一人から、亡隆雄が生徒指導主事をしていた昭和五五年当時、自分の子が当時の三年生から激しい暴力を振るわれたにもかかわらず、学校側が何も対応しなかったのに、今回の問題だけ取り上げるのは片手落ちではないかという強い苦情が出され、その時の相手方の生徒を呼び出して謝らせない限り今回の件について謝罪しないし、学校側の措置の片手落ちを教育委員会、新聞社へ訴えるなどという発言があり、亡隆雄は、その対応に非常に苦慮していた。

同人は、同月一六日(土曜日)には午後六時まで、同月一七日(日曜日)には午前九時から一二時まで出勤して修学旅行の準備をしたが、帰宅後、同月一六日には特にいら立った様子を家族に見せ、同月一七日以降夜睡眠が取れない状態に陥った。

3  亡隆雄の発症当日の職務内容と死亡に至る経緯(甲四八、八四、八五、九一、一〇四、乙五、七ないし九の各1・2、弁論の全趣旨)

(一) 同人は、同月一九日、午前八時に登校して同八時三〇分までテニス部の早朝練習に立ち会い、第一時限、第二時限に三年生の社会科の授業を行った後、第四時限(午前一一時三五分から午後〇時二〇分まで)で障害のある生徒に対する体育の個別指導の授業を行った。右生徒は、情緒が安定せず、その数日前に歩行訓練を指導した教員の顔面を殴打して傷害を与えたり、気が向かないと四階の教室へ戻ることを頑なに拒否し、担当教員が五、六名の生徒の協力を得てようやく四階まで右生徒を抱きかかえるようにして、強引に階段を連れ上がることもあった。なお、亡隆雄は、障害のある生徒に対する体育の個別指導の授業を担当したのは初めてであった。

亡隆雄は、右授業において、運動場へ出てビニールバットでボールを打って右生徒に拾わせようとしたが、右生徒が反応を全く示さないため、声を張り上げては注意を向けさせ、ボールを打っては自分で約六〇メートルの距離をボールを取りに走り、元の位置に戻って再びボールを打つという行動を授業終了直前まで繰り返した。亡隆雄は、授業終了直前、右生徒が自分の意思で教室へ戻ろうとしなかったため、右生徒を抱き抱えるようにして四階にある教室まで自分一人で階段を上らせて送り届けたが、右行為中には右生徒の体重を支えて階段の上の段へ持ち上げる動作も含まれていた。

(二) その直後である同日午後〇時二〇分ころ、亡隆雄は、背中から頭にかけて痛みと倦怠感があったことから保健室のベットで休んだが、頭痛が一層ひどくなり、吐き気がして意識が薄らぐなど次第に身体状況が悪化したため、校医の往診を受け、救急車で松原市三宅西所在の垣谷病院に搬送されて昏睡(脳卒中の疑い)と診断され、さらに同病院から堺市向陵中町所在の医療法人清恵会病院に転医され、脳動脈瘤破裂と診断されて入院加療を受けたが、同月三一日午後八時二三分脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血により死亡した。

4  亡隆雄の時間外勤務と休暇取得の状況(甲四五、四七、四八、七四、原告本人尋問の結果、弁論の全趣旨)

亡隆雄の昭和五五年四月から本件発症日までの生活は、毎朝七時一五分ころ家を出て出勤し、午後一一時過ぎに帰宅することも少なくなかった。

同人の発症前三か月間の時間外勤務は、昭和五六年二月、一一三時間三〇分、三月、五七時間一五分、四月、六時間三〇分、五月、二一時間三〇分であり、発症日直前の一週間については、五月一三日、四時間、同月一四日、五時間三〇分、同月一五日、四時間、同月一六日、五時間、同月一七日、三時間の五日連続計二一時間三〇分の時間外勤務があった。右時間外勤務中、同人が、生徒の問題行動に伴う生徒指導、父兄との懇談、家庭訪問に当たったのは、同年二月三、四、五、九、一〇、一二、一五、一七、一八、一九、二〇、二一、二四、二五日、三月三、四、六、一〇、一一、一六、二三日、五月一三、一四、一五日であり、その余の時間外勤務は主として職員会議又は校内巡視などであった。

また、同人のこの間の休暇取得は、同年二月に一日、三月に0.5日(自宅研修六日)、同年四月に〇日(自宅研修二日)、同年五月に0.5日(自宅研修一日)であった。

5  亡隆雄の健康状態(甲四一、四二、七八、八〇、八一、証人村田三郎の証言、原告本人尋問の結果)

亡隆雄は、身長約一七〇センチメートル、体重約六四キログラムであり、既往症は特になく、昭和五五年一一月の職員健康診断における血圧は最高一三四、最低九三であり、特に高血圧というほどではなく、医師から高血圧を指摘されたこともなかった。同人は一日平均日本酒約1.8合の飲酒と約二〇本の喫煙をしていた。

6  亡隆雄の死亡と業務との関係についての医師の意見

(一) 村田三郎医師は、昭和六一年一月二七日付け意見書(甲八一)において、概ね以下のような意見を述べ、当審における証言でも概ね同旨の証言をする。

亡隆雄が、長年の生徒指導主事の職務による精神的身体的疲労及びストレスの蓄積に加え、昭和五六年二月から三月にかけてのトラブルの多発、同年四月以降の初めての学級担任としての精神的身体的疲労の蓄積、四月末からの担任生徒の暴力事件の発生に伴う更なる精神的身体的ストレスの過重、これらの問題が解決しないまま次々と起こる問題行動の処理の多難さ、日常業務以外のクラブ活動の指導のための早朝からの出勤、初めての修学旅行の準備等で連続的で慢性的なストレスのため、一層の精神的身体的疲労が蓄積し、同年五月一九日にはこのような疲労とストレスが極限の状態に達していた。

このような同人の精神的身体的状況においては、同人の器官は、機能的障害の状態から器質的障害の状態へ進行悪化して行き、全身性神経系の平衡失調が生じて交感神経を介した血圧の変動が生じ、脳動脈瘤の破裂を誘発するような高血圧の状態が起こっていたと考えられる。このような状態で、発症当日、障害のある生徒の体育を担当してボール遊びを行い、授業終了後、右生徒を一階から四階までひとりで抱き抱えるように上らせた行為が四六才という年令の同人の心臓及び循環器系に対して一層の負担を生じさせ、これが災害的ストレスの原因となり重大な血圧の変動を来たし、脳動脈瘤破裂とくも膜下出血を発症せしめた。

また、同医師は、平成元年一〇月五日付け(甲八二)、平成三年一月六日付け各意見書(甲一〇七)において、亡隆雄の本件発症直前の行動を再現する実験を行ったところ、行動前と行動後とでは被験者の最高血圧が二〇から三〇程度上昇しており、亡隆雄の発症直前の行為が脳動脈瘤の破裂の誘因となったと考えるのが妥当であるとの意見を述べ、同旨の証言をする。

(二) 柳原武彦大阪大学教授は、亡隆雄の症状の経緯からすると、同人の死亡原因は、脳底動脈の脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血であると考えられるところ、脳動脈瘤破裂は、血圧が急激に極端に上昇して生ずる場合もあるが、それ以外の場合は血圧との関連が明らかになっていないし、二〇ないし三〇程度の血圧の上昇が脳動脈瘤破裂の原因となることはない旨証言する。

二  地方公務員災害補償法三一条にいう「職員が公務上死亡した場合」とは、職員が公務に基づく負傷又は疾病に起因して死亡した場合をいい、単に死亡結果が公務の遂行中に生じたとか、あるいは死亡と公務との間に条件的因果関係があるというだけでは足りず、これらの間にいわゆる相当因果関係が存在することが認められなければならない(最高裁昭和五一年(行ツ)第一一号同五一年一一月一二日第二小法廷判決・裁判集民事一一九号一八九頁参照)。

そして、右因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験側に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認し得る程度の高度の蓋然性を証明することであり、その立証の程度は、通常人が疑いを差し挟まない程度の真実の確信を持ち得るものであることを必要とし、かつそれで足りるものというべきである(最高裁昭和四八年(オ)第五一七号同五〇年一〇月二四日第二小法廷判決・民集二九巻九号一四一七頁参照)。

三  亡隆雄の死因が脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血であることは当事者間に争いがないところ、その発症と同人の公務との間の相当因果関係の有無を判断する。

1(一)  証拠(甲八一、八二、一〇七ないし一一〇、一一一の1・2、一一二、乙二ないし四、七ないし九の各1・2、一三ないし二六、二七ないし三〇の各1・2、三一ないし三四、証人上野満男、同村田三郎、同柳原武彦の各証言、弁論の全趣旨)によれば、以下の事実が認められ、ほかに右認定を左右するに足りる証拠はない。

(1) 脳動脈瘤破裂の原因となる曩状脳動脈瘤の発生の機序については諸説があるが、動脈の中膜及び弾力繊維の先天的な欠損又は発育不全欠損により動脈壁に薄弱部が生じ、動脈圧により突出膨張して発生するという見解が有力であって、精神的身体的疲労やストレスと曩状脳動脈瘤の発生との関係については、医学上明らかにされているとはいえない。

(2) 形成された脳動脈瘤の破裂は、脳動脈瘤の血管壁の脆弱化が原因となる外、急激な血圧上昇の結果、脳動脈瘤がその自然的経過を超えて急激に著しく増悪し、脳動脈瘤破裂を発症させることもある。このような血圧上昇の原因として作用するものとしては、加齢、遺伝、肥満、喫煙、飲酒、糖尿病、寒冷、食塩の摂取などがあるが、排便や重い物を持ち上げるような動作がその原因となることがあり、また、精神的身体的疲労の蓄積が持続的又は断続的な血圧上昇をもたらすこともある。そして、日常業務に比較して特に過重な業務に従事することによる精神的身体的負荷も、このような血圧上昇の原因となることがある(ちなみに、被告自身、急激な血圧変化や血管収縮を引き起こす負荷が加わり、基礎疾患である脳動脈瘤が自然的経過を超えて急激に著しく増悪し、脳動脈瘤破裂が発症した場合、このような血圧変化や血管収縮が公務により引き起こされたときには、公務と発症との間の相当因果関係を肯定するのが相当である旨主張する。)。

(3) そして、このような精神的身体的負荷は、発症前二四時間以内のものが発症に特に大きな影響を与えるが、発症前一週間以内のものも発症に大きな影響を与えることがある。そして、このような精神的身体的負荷がもたらす血圧変動の程度は、その負荷を受けた時の身体の状況に左右されることがあり、それ以前に受けた負荷による精神的身体的疲労の蓄積が、右血圧変動の程度を増大させる付加的な要素として作用することのあることが認められる。

(二)  もっとも、証人村田は、高血圧状態が継続すると脳動脈壁の薄弱部分がない場合であっても相当程度の割合で脳動脈瘤が発生するという動物実験の結果や、脳動脈壁に先天的な薄弱部分の存在することが脳動脈瘤発生の必要条件ではないと説く学説などを援用して、精神的身体的ストレスが曩状脳動脈瘤発生の原因となり得る旨証言する。

しかし、同証人の援用する前記の実験結果と学説によっても、人間について、どの程度の高血圧状態がどのくらいの期間継続すれば、いかなる頻度で脳動脈瘤が発生するかという点は未だ解明されていないといわざるを得ない上、前判示の証拠も考え併せれば、右証言をもって精神的身体的ストレスが曩状脳動脈瘤発生の原因となり得るとは認めるに足りず、ほかにこれを認めるに足りる証拠はない。

2 1に判示したところによれば、亡隆雄の本件脳動脈瘤破裂とその公務との間の相当因果関係の有無を判断するには、本件脳動脈瘤破裂の発症直前、とりわけ発症前日及び発症前一週間以内に、脳動脈瘤を自然的経過を超え急激に著しく増悪させ、脳動脈瘤破裂を発症させるような急激な血圧上昇を生ずるに足りる精神的身体的負荷を、同人が公務により受けたか否かを検討することが重要である。また、右負荷を受けた時における同人の身体の状態が右負荷のもたらす血圧変動の程度を左右することがあり、それ以前に受けた負荷による精神的身体的疲労の蓄積が、右血圧変動の程度を増大させる付加的な要素として作用することがあることにかんがみると、同人がそれ以前の公務により受けた精神的身体的疲労が本件発症の直前まで解消されずに蓄積されていたか否かについても付加的に考慮する必要がある。

(一) 昭和五六年二月から三月(春休み開始)までの職務内容

前記認定の事実によれば、この間も、第四中学は、非常に荒れた状態にあり、生徒の問題行動が多発して生徒間の暴力や教員に対する暴力行為四件、恐喝行為一件、わいせつ行為二件、学校器具の損壊数件が発生したこと、右問題行動の内容は、教員に対する暴力行為、恐喝行為、わいせつ行為など深刻なものが多く含まれていたこと、亡隆雄は、生徒指導主事として、当該生徒の指導、父兄との面接指導、家庭訪問、関係機関との連絡に当たり、その時間外勤務は、同年二月に一一三時間三〇分、三月に五七時間一五分あり、そのうち生徒の問題行動に対する対処のために使用されたのが二月に計一四日間、三月に計七日間であったこと、亡隆雄は、同年三月ころには、生徒指導が容易でなく、同校の状態が一向に改善されないことや、生徒指導主事としての職務を遂行する際にこのような生徒の反感を一身に受けることが少なくないことなどを非常に悩んでおり、帰宅後も緊張が解けず、いら立った様子を家族に見せるようになっていたこと、生徒の問題行動に対する対処や当該生徒に対する指導は生徒指導主事である亡隆雄の通常の職務内容ではあるが、このような深刻な問題行動が頻発し学校が非常に荒れた状態にあるという事態に対する対処や当該生徒に対する指導は、同人の日常業務による負担を著しく超えるものであることが認められる。

以上によれば、亡隆雄が、経験豊富な教員であり、生徒指導主事を五年以上勤めた実績を有し、その職務の遂行には他の教員の協力があったことを考慮しても、この期間の同人の職務内容は、日常業務と比較しても著しく過重なものであり、同人は、その職務の遂行により、相当程度の精神的身体的疲労を蓄積させたことが推認される。

(二) 春休み期間中(同年三月二五日から四月七日まで)の職務内容

前記認定の事実によれば、亡隆雄は、三月二五、二六、二八、三一日、四月一、四、六、七日の八日間野球部の練習指導と他校への試合の引率を行い、四月二日と三日も職員会議などのため出勤した上、四月の新学期から職務内容が一変して六年ぶりの三年生の学級担任や週二二時間の授業を担当することになったため、相当の時間をその準備に費やしており、(一)判示の職務内容の過重性とそれによる精神的身体的疲労の蓄積の程度も考え併せると、右蓄積疲労を春休み期間中に解消することはできなかったものと推認される。

(三) 同年四月の新学期開始から本件発症の一週間前までの職務内容

前記認定の事実によれば、亡隆雄は、同年四月から、生徒指導主事を辞め、六年ぶりに三年生の学級担任と週二二時間の授業を担当することになって職務内容が一変したこと、同人の担任学級の生徒中には、問題行動を繰り返し昭和五五年度に同人が指導した女生徒が含まれていたこと、亡隆雄は、右女生徒に対する指導方法や学級委員選出などの学級経営の方法を同僚教員から強く批判され、同僚教員との間の意見の相違や学校内での人間関係についても深く悩むようになっていた上、右女生徒に対する指導の効果が上がらず、学級経営が円滑に進んでいないことについても苦慮していたこと、同月二五日と二八日には、右女生徒が暴力行為などの問題行動を起こしたため、亡隆雄は、右女生徒らを指導する一方、その父兄を学校に呼んで指導したり、家庭訪問を繰り返すなどその対応に追われたことが認められる。

そうすると、亡隆雄は、右の期間において、同人の職務内容と職務環境の著しい変化や生徒の問題行動続発とその対処のための精神的身体的負担、学級経営と右女生徒に対する指導の困難さ、同僚教員からその教育活動について強い批判を受けたり、学校内の人的関係が悪化したことに伴う精神的負担を受け、右負担と前判示の精神的身体的疲労の蓄積の程度などを総合すると、同人は、この期間の職務により、日常業務を上回る精神的身体的負荷を受け、少なくとも、この期間中に前記の精神的身体的疲労の蓄積を解消することができないまま、本件発症日の一週間前に至ったことが認められる。なお、同人の昭和五六年四月中の時間外勤務時間が六時間三〇分であって、三月より減少しているが、右事実は右認定を左右するものではない。

(四) 発症前一週間の職務内容

前記認定の事実によれば、同年五月一一日、亡隆雄の担任する前記の女生徒らが同年四月二七日に他の女生徒に対し集団で暴行を加えたという別の問題行動の発生が判明したため、亡隆雄は、その指導のため同年五月一三日から一五日まで、毎日午後七時から一〇時三〇分ないし一一時ころまで右の女生徒らに対する指導とその親との懇談を行ったこと、その際、親の一人から、亡隆雄らに対し、同人が生徒指導主事をしていた期間の同校の生徒指導を批判し、今回の学校側の措置が片手落ちであり、これを教育委員会や新聞社に訴えるなどの強い苦情申立てがあったこと、同人は、その指導と対応に大変苦慮しており、同月一六日帰宅後もいら立った様子が見え、同月一七日以降夜睡眠が取れない状態に陥ったこと、同人は、同月一三日から一七日までの五日間連続で毎日三時間から五時間半計二一時間三〇分の時間外勤務をしたことが認められる。

そうすると、本件発症前一週間の同人の職務内容は、同人の日常業務に比較して著しく過重であったものと認められ、このような職務に従事することにより同人の受けた精神的身体的負荷は、それ自体、同人の血圧を急激に相当程度上昇させるに足りるものであったことが認められる。

(五) 発症当日の職務内容

前記認定の事実によれば、亡隆雄の同月一九日の発症直前の授業は、障害のある生徒を個別指導する体育であり、右生徒に対し運動場でビニールバットでボールを打って拾わせるという授業内容であったが、亡隆雄は、右生徒が反応を示さないため、声を張り上げては注意を向けさせ、ボールを打っては自分で約六〇メートルの距離をボールを取りに走り、再び元の位置に戻ってボールを打つという行動を授業終了直前まで繰り返し、その後、右生徒が自分の意思で教室へ戻ろうとしなかったため、右生徒を抱き抱えるようにして一階から四階にある教室まで自分一人で階段を上がらせて送り届けたこと、右行為中には右生徒の体重を支えて階段の上の段へ持ち上げる動作も含まれていたこと、右生徒は、気が向かないと教室に戻ることを頑に拒否し、担当教員が五、六名の生徒の協力を得て抱き抱えるようにして階段を連れ上り、ようやく四階の教室まで送り届けることもあったことが認められる。

そして、重い物を持ち上げる動作が急激な血圧上昇の原因たり得ることは前判示のとおりである上、証人村田の証言及び甲第八二号証、第一〇七号証によれば、同証人による亡隆雄の右行動の再現実験では、被験者について行為終了後最高血圧が二〇から三〇上昇したことが認められ、右被験者が、右実験当時亡隆雄のように精神的身体的疲労を蓄積させた状態にあったり、その前一週間に著しく過重な業務に従事したとは認められず、再現実験における血圧測定が行為終了後に実施されたものであることも考え併せると、亡隆雄の右行為中の血圧上昇の程度は再現実験の被験者より相当大きかったものと推認される。

右事実及び前判示の各証拠を総合すれば、亡隆雄の右授業の際の行為及び右生徒を抱き抱えるようにして階段を上がらせ四階に送り届けた行為により同人が受けた精神的身体的負荷は、それ自体、同人の血圧を急激に相当程度上昇させるに足りるものであったことが認められる。

3 2認定の事実、とりわけ、亡隆雄の本件発症直前の行為は同人の血圧を急激に相当程度上昇させるに足りるものであったこと、右行為の直後に本件脳動脈瘤破裂が発症したこと、本件発症前一週間の同人の職務内容は日常業務に比較して著しく過重であり、このような職務に従事することにより同人の受けた精神的身体的負荷は、それ自体、同人の血圧を急激に相当程度上昇させるに足りるものであったこと、同人は2(一)判示の著しく過重な公務による精神的身体的疲労の蓄積から回復せず、急激な血圧上昇を起こしやすい身体的状態のまま発症一週間前に至ったこと、同人の昭和五五年一一月の職員健康診断の結果によっても高血圧とはいえず、同人に高血圧やその原因となるような既往症がないこと、同人の年令(四六才)、肥満度(身長約一七〇センチメートル、体重約六四キログラム)、飲酒(日本酒一日平均約1.8合)、喫煙(一日平均二〇本)は、それ自体急激な血圧上昇の発生原因になるものとは認められず、同人にはほかに急激な血圧上昇の発生原因となるような素因や嗜好も認められないこと、同人の公務外の生活において、急激な血圧上昇の発生原因となるような精神的身体的負荷をもたらす事由の存在が認められないことを総合すると、同人は2(一)判示の著しく過重な公務による精神的身体的疲労の蓄積から回復せず、急激な血圧上昇を起こしやすい身体的状態のまま発症一週間前に至り、その後発症日までの間に2(四)判示の日常業務より著しく過重な公務による精神的身体的負荷を受け、発症当日に急激な血圧上昇の原因となり得る2(五)判示の公務上の行為をした結果、同人の血圧が急激に上昇し、同人の脳動脈瘤が自然的経過を超えて急激に著しく増悪し、本件脳動脈瘤破裂が発症したものであると推認することができる。

したがって、同人の公務は、その死亡の相対的に有力な原因に当たるものというべきであり、両者の間には相当因果関係があるものと認めることができる。

4  もっとも、証人柳原の証言中には、最高血圧が二〇ないし三〇程度上昇するだけでは脳動脈瘤破裂は起こらない旨の供述部分があり、村田医師による亡隆雄の本件発症直前の行為の再現実験では、行為終了後の測定で被験者の最高血圧が二〇ないし三〇上昇したことは前記認定のとおりである。

しかし、同証人は、脳動脈瘤破裂が血圧の極端で急激な上昇を原因として発症する場合があり、重い物を持ち上げる動作がこのような急激な血圧上昇を引き起こすことがある旨の証言もしているところ、亡隆雄は、発症直前に、自分の意思で教室へ戻ろうとしない障害のある生徒を抱き抱えるようにして一階から四階にある教室まで階段を上がって送り届けており、右行為中には右生徒の体重を支えて階段の上の段へ持ち上げる動作も含まれていたこと、村田医師の再現実験の被験者が再現実験当時亡隆雄のように精神的身体的疲労を蓄積させた状態にあったり、その直前一週間に著しく過重な業務に従事したことは認められず、右測定が行為終了後になされたものであることを考え併せると、亡隆雄の右行為中の血圧上昇が再現実験の被験者より相当程度高かったものと推認されることは、いずれも前判示のとおりである上、3判示の点も考え併せると、右証言をもって前記の認定を覆すには足りず、ほかにこれを左右するに足りる証拠はない。

四  以上によれば、亡隆雄の死亡が公務によるものではないとした本件処分は違法であり、その取消しを求める本訴請求は理由があるからこれを認容する。

(裁判長裁判官松山恒昭 裁判官大竹たかし 裁判官高木陽一)

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